我が家のパート5

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2014年 04月 09日

6名字

4月9日  (水)

京都大覚寺で買った「嵯峨御絵巻」に、やたら「秦氏」が登場する。

大阪に流れ込む淀川は京都に入ると「桂川」と名前を変え京都市内で西へ桂川、東へ賀茂川と別れる(A)。

ちなみに桂川は洪水のあった「渡月橋」(B)から上流は保津川と名前をかえる。

賀茂川は上流で高野川とさらに別れる(C)

(A)・(B)・(C)を結ぶと巨大な三角形ができるが、この地帯を支配していたのが、秦一族。

この三角のなかに、すっぽりと収まるように正方形で碁盤の目のような道路を造ったのが平安京。

平安京を造る前は桂川・賀茂川の氾濫でも秦氏の土木技術は優秀で堤防などを作ったという。

今でも平安京の碁盤の目のような都市の京都はその当時のままなんだろう。

秦氏の土木技術・財力は当時は相当なものを持ちながらも、(天皇家に匹敵するほど)日本史では「秦氏」の反乱とか朝廷に敵対心は微塵も感じられない。

秦氏の関係する土地は埼玉県の飯能市・神奈川県の秦野市と全国に結構な数があるそうだ。

(秦野市は子供の住んでいる市であり、ピンときたし、飯能市は40年ほど前東京に住んでいたとき、飯能は朝鮮人が創った(居住)町と聞いていた。)

秦氏(はたし)の秦(はた)という名字は聞かないが、羽田・波多野という名字はかなりある。 総理大臣まで登りつめた「羽田孜」は秦氏の末裔ともいうそうだ。

平安時代の嵯峨天皇前後には、秦氏一族は天皇家に妃を出したり、宮廷の重職も仕えていた。 それよりまして、平安京に自分の土地を提供するほどの、財力はどう工面したのか不思議でならない。

いくら土木技術が優秀だとしても、当時の人夫は農閑期ならタダ同然に働かせたし、いくら官庁発注の工事といっても談合などできないだろうし、朝廷も巨額な金ももっていなかっただろう。

▼ 秦氏は朝鮮から渡来したのは事実のようだが、その先はよくわかっていないらしい。

百済・高句麗・新羅と渡り歩き、の始皇帝の末裔が氏(はたし)という説もある。

秦の始皇帝が没落寸前に秦氏がその金銀財宝を持ちだし、朝鮮を経由し安住の地を京都に求めたんでしょうか?

大東亜戦争末に蒋介石軍は共産党軍に敗北し、金銀財宝を持ちだし台湾で体制を立て直そうとしたが、それは列車や舟・飛行機と大量輸送手段のあった時代だから可能だが、2000年以上の大昔に京都という大都市に渡来人が繁栄したことが不思議でならない。

関ヶ原の戦い後、タイ(シャム)に渡った山田長政は一時「日本人町」を作ったが、タイも内乱が多く優秀な武士がほしかったので、長政が優遇され、日本人町を作ったように、泰氏の土木技術とか、なんらかの力が、朝廷に認められ保護されたんだろう。

その後 朝廷の力を利用し秦氏の繁栄となったのだろう。

秦の始皇帝の末裔が羽田元総理とは、秦一族には恐れ入る。

ちなみに京都駅から北北西の位置に「太秦駅」(うずまさ)があり、秦氏の名残りなんだろう。
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by wagayanao | 2014-04-09 22:27


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