我が家のパート5

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2014年 08月 31日

新田一族 と 加茂・三条

8月31日  (日)

新田義貞の本を読み終えた。 ↓

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新田義貞の生涯を書いている。 歴史上では、あまり有名な武士ではないが、血筋は立派な家系。

源義家の子が6人おり、子の義家の3代目が源頼朝で、源平合戦のすえ鎌倉幕府を開いたが3代で北条氏に乗っ取られてしまう。頼朝の家系も3代で滅亡。

義家と兄弟の義国は二人の子がおり、長男の義重を新田の荘へ。二男の義康を足利の荘へと分家に出させた。
義重は長男(嫡男)であるので、源氏の正当なる本家筋に当る。

その本家と分家の8代目が新田義貞と足利尊氏(高氏)である。

北条に乗っ取られた鎌倉幕府を倒すため、足利尊氏は京都の六波羅探題を攻め、新田義貞は鎌倉を直接責め、北条氏を壊滅させた。

そこまでは、めでたし・めでたし だが、功績のある方は新田義貞だが、恩賞は足利が断然多かった。 

そんなゴタゴタの上に天皇も二派にわれ、後醍醐天皇側新田義貞は勅命により官軍となり、足利尊氏を攻め、九州まで敗北。 
負けた足利尊氏も新天皇をたて、「錦の御旗」をたて逆襲に成功。 足利は四国の水軍を味方につけたのが大きかったようだ。

まッーそんな物語でした。 

歴史のついでに、足利尊氏は室町幕府を造り、15代将軍まで続き、織田信長に破れてしまった。


▼ 新田義貞も全国に一族がある。 倒幕のために挙兵したのは一三三三年。 その挙兵に参加した大将クラスの豪族が越後にいた。

中魚沼郡大井田郷の大井田経隆と長男経兼と二男氏経。以下25名をつれ、新田館に参上した。

その日の夕方までに越後の新田一族2千騎も駆け付けたと、本には書いている。

越後の新田一族は、「里見」・「鳥山」・「田中」・「大井田」・「羽川」としか書いていない。 

越後といっても広い。 旧新潟選挙区の2・3・4区だ。 加茂とか三条出身者は?と調べてみました。



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じいちゃんの形見?で昭和56年発行で定価15000円と電話帳のように厚い高価な本です。

書いていました。何ページかにわたって。 ↓

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↑ 三条から『池三衛門尉長久』が1335年に帝(みかど)を授けんとして兵を挙ぐ。・・・・・・・云々(うんぬん)と古文書に書かれている。

ところが、↑の資料?の赤四角の最後の方には池長久は足利尊氏に味方していると書いている。 

で、最後は新田義貞が足利尊氏に破れ、尊氏は「室町幕府」を開いたのだが、どちらが勝っても源氏。 だったってわけだ。

▼ ここからは想像です。

その家系もどうやら三条でなく加茂に残っている。

源清田一家って聞いたことがあると思う。 ヤクザの団体です。 ゲンセイダのゲンを意味し、源氏の流れをくんでいる。

三条には「源清田島影組」なるものが残っており、親分は元三条市議。

加茂にはズバリ「新田親分」がおり、余談?だが、我が元実家のナナメ前(神明町)に泉田県知事の実家「ヒコネロン」という広い屋敷があり、「ヒコネロン」はそこを売り払い?、その後に新田親分が住んでいた。

歴史に「タラ・レバ」があったなら。・・・・・・

新田義貞と足利尊氏の戦で新田が勝っていたなら、その子孫は織田信長なる「若造」に負けず、現在までも新潟県中越地方、とりわけ加茂市は日本の中枢都市になっていたのは間違いない。
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by wagayanao | 2014-08-31 21:41


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