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我が家のパート5

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2014年 01月 24日

1月24日  (金)

普通 小説とか記事とかの文の合間に「余談だが」・・・・とか本題とは直接関係ない事を紹介している。
(プロフェッショナルの場合)

だいたい文筆家というのは早稲田大学文学部卒。当方は工業高校機械化卒なもんで、文章どころか設備工事関係以外は「ど素人」。

なもんで、いきなり「余談」です。

昨日のブログで『手数料』について書いた。 国連の収入は各国の分担金と書いて、日本の負担はアメリカの次で2億7600万ドル。中国は日本の半額と書いた。日本に比べ中国は安すぎるって思いで書いたつもりだったが、とんでもない思いあがりだった。 中国も韓国も口だけはよく出す。イザ金を出してくれと頼んでも出るのは赤い舌だけ。
人はこれを 『アカン べぇ~~』という。 まぁ それはお国柄でしょうがないが、日本の負担金が安すぎる。
っていうのは、田中将大(マー君)が7年間だけど1億5500万ドルで契約したという。日本国の負担金の半額以上の稼ぎってこと。 マー君一人で常任理事国の中国と同じ負担金。 韓国の2年分の負担金をマー君が稼ぎだした。 すごい事ですね。

もうひとつ昨日の『手数料』の余談です。 

手数料を江戸時代は「従価銭」と書いたが、今日の朝日新聞「天声人語」では明治の初めの事を書いてあった。 ↓
院_b0193252_19474672.jpg

収入印紙は明治の初めにでき、農民だけでなく、商工業者から税金をとる狙いだったという
最後に「すっきりさせてはどうか」とある。大賛成だ。 ついでに収入印紙と収入証紙を一緒にしてもらいたい。

▼ 本題に入るまえに もうちょっと余談・・・・・・をと。

明治初期にやっと商工業者から税金をとる仕組みができたが、それ以前はどうだったんでしょう。

百姓は年貢という税金。商工業者は時代劇でおなじみの「越後屋~~お前も悪じゃのぉ~~~」と お代官様に「袖の下」で済んだ。

百姓の年貢の基準となる「田んぼ」の面積は豊臣秀吉の太閤検地までさかのぼる。 で、この「田んぼ」の測量で百姓から年貢の取り立ての制度としてほぼ完ぺきに整った。

採りたて役の役人も人の子。 誰から取り立てるか前任者から引きつぐだろうが、前任者が突然死んだ場合、引き継ぐ事ができない。
秀吉の頃はすでに「戸籍」というものがあり、前任者がいなくとも戸籍をもとに引き継ぐことが可能であった。

やっと 本題です。

じゃー「戸籍」はいつごろできたの?っていうと・・・・・

▼ 645年・ ムシゴメ・大化の改新と一度は聞いたことがあるの頃から、急ピッチで作り上げたようです。

政治を行う以上税金をとらねばならない。 税金をとる以上国民を把握しなければならない。 ってことで戸籍作りを大々的に行った。 これが7世紀後半。

戸籍には女・子供・病人・年寄りまで載せる。そこで身体障害者や重い病気の人は課役(税や公共工事の仕事)を免除したり、そういった人には介護者を決め介護してやるって原則があったそうだ。

政治が安定していれば、いいが、そのうち飢饉や戸籍によって重い課役を賦課すれば当然、浮浪児や逃亡する人が増え政治上でも問題になってくる。

8世紀初めには、そういた人々の救済として「悲田」 ・ 「施薬」という施設を作った。 「悲田院」は孤児などを収容。「施薬院」は病人を収容。これを国家が税に対し、国民へサービスの始まりでしょう。 
弱者を救うってことは8世紀頃から行われていたんですね。

「施薬院」は病院となり、「悲田院」はオレの想像だが、明治以降、「感化院」→「少年教護院」→「少年院」または「児童自立支援施設」など枝別れしたような?

ちなみに童謡 「ちいさい秋みつけた」のサトウハチロウは感化院を出たり入ったり。 小さい頃問題児だった彼も大人になれば、そんな事があったの?で 立派に更生した。

▼ そんな意味を含めて「悲田院」の枝別れしていきついた先が「衆議院」 ・ 「参議院」ではなかろうか?

何百人もいる議員さんよ。 そこで頭を冷やしてみたらどうだろう。

あぁ~ またも まとまらないブログでした。008.gif

by wagayanao | 2014-01-24 21:27


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